熊の崫神社

熊の崫神社(くまのいわやじんじゃ) 
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熊山村にある神社。クマナミノミコトを祀る。大熊神社、熊玉神社と並ぶ熊野三山の一つ。

熊波大の熊田広教授はかねてから、この地方には熊にまつわる神社が3つあるという熊野三山説を唱えて来た。学界からは常に否定され続けて来たが、この度、教授はその跡を遂に発見、持論を証明してみせた。以下は、月刊誌『歴史と熊』12月号に掲載された熊田教授の論文からの引用である。

「私はこれまで、熊野地方には3つの社があると主張して参りましたが、この度の発見でそれが証明され、誠に嬉しい限りです。これまでご協力頂いた全ての皆様にこの場をお借りして感謝申し上げたいと思います。

今回の発見は、全くの偶然からでした。以前、「大熊神社縁起」を整理し、訳していた時に、「クマナミノミコト、オオクマノヤマノミコトを孕みしは、水多き陰の巡りの時なり。故(かれ)、クマナギノミコトこれを憂う。オオクマノヤマノミコト産みし時、クマナミノミコト身罷れり。クマナギノミコトこれを大いに嘆き悲しむ。オオクマノヤマノミコト、長じてその母を知らぬを悲しび、大いに暴れ、国を荒らす。」というくだりのところに、妙な墨による点、汚れがあることに気付いたのです。もし誤って墨で汚したものなら改めて清書するでしょう。他にはそのような箇所はないのですから。どうも、その点は、意図的にそこに書かれた気がしたのですが、そのことはそのままになっていたのですが、その後、「縁起」と一緒に発見された反古の類の中に、その汚れと同じものを見つけたのです。そこには短い文章が書いてありました。私はあの点が、実は、わかる人にだけわかるように、実はこの部分には「注」があることをそれとなく告げているものだと理解しました。実際、その反古の中に見つかった文章は、この部分を補うものでした。

実際には、クマナミノミコトは、オオクマノヤマノミコトを産んですぐ亡くなったのではない。オオクマノヤマノミコトは陰の巡りの時に身籠もられたため、世の中のクマ=悪を引き受けて生まれてしまった。そのため、「大いに暴れ、国を荒らす」ようになったのである。これは産んだ親の責任と、クマナミノミコトはそのクマを全て自分の身に引き受け、我が身の炎もてこれを焼き尽くさんとしたが、逆に、全てのクマとともに自らも炎によってやけどを負ってしまった。母のやけどは自らの過ちによるものと、今や、全ての悪が去ったオオクマノヤマノミコトは、母の体を冷やすため、自らを産んだとされる滝のある岩場に母を横たえて看病したのだという。しかし、その甲斐もなく、クマナミノミコトは身罷り、オオクマノヤマノミコトはその場所に小さな祠を設けて母の供養をしたのだという。しかし、クマナミノミコトが身罷ったのは、全てオオクマノヤマノミコトのせいだと責める父と姉、兄によって、神の世界を追放されたのだ、とするのが真相のようである。

熊の崫神社の発見が遅れたのは、恐らく、この真相を明らかにしたくないがために、大がかりな改修などもされず、国からは放置されていたからに相違ない。しかし、クマナミノミコトやオオクマノヤマノミコトを信仰する熱心な地元の人たちによって、ひっそりと保存され続けてきたのである。

そのこともあって、今回、再現された場所をメディア等で公開することはやめにしました。しかし、勘の良い方ならすぐにおわかりになるでしょう。恐らくは私と同じ推理を辿るはずですから。即ち、注記にあった「滝のある岩場」をまず探すことだからです。私たちの研究グループは、何とそこで、砕けて石のようになっているが、実は石でできた鳥居の破片を多数みつけたのです。それが破片とわかったのは、比較的人工的な輪郭がみられたからです。恐らく、この鳥居は大噴火の時吹き飛んだものなのでしょう。かなり長い期間にわたって水の下を調査した結果、遂に鳥居の台座らしきものを発見、集めた破片と組み合わせて、当時の姿を再現することができました。勘のよい方はきっとこの鳥居まですぐに辿り着くことができるでしょう。

しかし、私にとって不思議だったのはその鳥居の位置です。何故、岩の手前にあるのか? 鳥居はそこが入口であることを示しています。とすれば……。驚きはそこからでした。信じるものは救われるのです。前に向かって行動した者にのみ、真実が明かされるようなしかけがそこには隠されているのでした。」
(月刊『歴史と熊』平成二十二年十二月号より転載)

  • 最終更新:2011-01-01 18:51:55

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